2010年
4月のつぶやき
4月25日 パパママ教室
現在、遅い桜が満開となった。風景も色とりどりとなり、春が来たと実感できる。そんな中、今日は保健センターが主催するパパママ教室に参加した。全三回のうち、初回の今日は、妊娠中の栄養についての講義と調理実習であった。保健センターに行けば、私たちも含めて同世代の新前パパ4人と新前ママ8人が集まった。
栄養の講義は面白かった。栄養学というのは、厳密に研究された学問でありながら、活用するときには敢えて曖昧に取り扱うらしい。例えば、野菜300gとは、緑黄色野菜であれば「片手で持てる程度」、葉モノであれば「両手で持てる程度」であった。また、これらの知識を生かしつつも、それは頭の片隅に置いておく程度でよく、食事の時間を豊かに過ごせることが最優先される。
調理実習は、パパとママで分かれて作った。パパは鳥のから揚げの甘酢ソース、ママはその他(おから、味噌汁、フルーツヨーグルト)を担当することになった。パパの中には普段から料理をしている人もいれば、全然したことがない人もいた。ひとりの若いパパは、用意された野菜を見て「これ洗うんスか?」と質問していたのを聞いて、職員の女性は「男性って面白いですね」と笑っていた。彼はその後、調味料を取りに行ったきりしばらく戻ってこなかった。大さじと小さじの使い方が分からなかったらしい。
結局、かなりしっかりした昼食が出来、談笑しつつこれらを食べて一日目は終了した。これで参加費は300円だから安い。次回は「妊婦シミュレーション体験」らしい。重いものをお腹につけてみるらしい。今から楽しみである。
4月18日 リコーダー発表会
昨日は、リコーダーの発表会であった。朝の7時半、車で会場である所沢に向かった。
外に出れば、一面銀世界であった。とても4月の光景とは思えない。当然、車は雪に埋もれており、これを取り除いてから出発した。更に、東北道のインターに行けば、通行止めであった。なんという日であろうか。一般道路で那須インターまで行き、そこから高速に乗った。
なんとか、リハーサルにぎりぎり間に合い、無事に本番も終了した。
改めて、リコーダーは面白いなぁと思った。リコーダーは、息を入れる量に伴って音程が変化してしまうため、フルートや尺八のように極端に小さい音や、逆に大きい音は出せない。よって、感情に任せて豊かに表現するというよりは、どちらかといえば淡々と吹く感じとなる。それでも豊かに表現できるし、むしろそうだからこそ、演奏者の意図しない素直な感情が音色に表れたりするのが、不思議で面白い。
私も遠方から来たひとりではあるが、他に旭川、大分、京都などから来られた方々もいらっしゃった。やはりリコーダーは楽しい。
4月15日 欲情の作法
渡辺淳一の「欲情の作法」を読んだ。表紙に「実践的最新恋愛講座」と書かれたこの本を読んでいると、妻が若干いぶかしんだが、しばらくすると妻も面白がって読んでいた。
驚くべきことに、本の冒頭では、恋愛を始める前に自分の精子を顕微鏡で見なさい、と書かれている。
「この顕微鏡下で一瞬たりともじっとせず、ぴちぴち動き回る姿を見たら、自分の精子の、そして自分の落ち着きのなさがここからきていることに思いつくはずです。そしてさらに、絶えずいろいろな女の子に目移りし、気になる自分の性格が、ここからつくられていることに気付くはずです。まさしく、精子は男の躰と心を定める原点であり、象徴でもあるのです」(本文より)
いちいち表現が面白い。その内容は、若干公序良俗に反しているものの、真実をついており、かつユーモラスである。
「男が女に魅力を感じて欲しくなる。その原点は、はっきりいって性的欲望です。目の前にいる女性を思いっきり抱き締め、接吻をし、裸にして関係したい。とくべつホモ的嗜好のない男なら、みなそう思い、そう願うはずです。<中略>某大学教授がスカートの中を覗こうとしたり、車内で痴漢が絶えないのも、男に性的欲望があるからで、ほとんどの男たちはその欲望を懸命に耐えているだけで、したい気持ちはみな同じです」(本文より)
なかなかこう書けるものではない。少なくとも私にはこう書く勇気も、男としての器の大きさも無い。このような内容にも拘わらず、この本には低俗さが無い。それどころか上品で紳士的な雰囲気さえ漂っている。本物のプレイボーイを垣間見た気がする。
そしてこの本は、恋愛をしたい男性だけでなく、恋愛したい女性にも向けられている。妻も「わかる、わかる」と感心している。渡辺淳一はなぜここまで普遍的な男女の心理が分かるのか。実に不思議である。
4月14日 幸せという字
通勤中、毎朝ラジオで「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」を聴いており、これが面白い。その中で、「幸」という字に関することが述べられていた。自分の名前に関することなので興味深く聴いていた。
番組によれば、驚くべきことに、「幸」という字は昔の木製の手錠を表した字らしい。そして、「(極刑などにならず)手錠をかけられる程度で済んでよかった」というのが「幸」という字の語源である、と言うのである。確かに「幸」と言う字を横向きにすれば、そう見えなくも無い。
私は、それを聞いて嬉しいと感じた。幸せというのは、あくまで相対的なものであり、誰にでも平等に得られるものだと感じたからである。語源からすれば、「幸せある」ということは、「快楽的である」ことと同義ではあるはずもなく、全く異なる次元のことを表しているのである。手錠を表した文字が、あらゆる漢字の中で最も素晴らしい状態を表す文字のひとつになっていることは、非常に面白いし、昔の人のそのささやかな感性をいとおしく思う。
私は、はちみつを際限なく食べる熊のぬいぐるみの姿を見ても、「幸せ」だとは思わない。妻の作るささやかな食事を食べる時間のほうがはるかに幸せである。私に「幸」の字が付いていることを嬉しく思った。
4月11日 メガネ、牧場など
昨日、妻がどこかに出かけたい、と言った。妻からどこかに行こうと言い出すのは珍しい。妻はインターネットで色々探したのち、那須の南ヶ丘牧場に行きたい、と言った。
行く途中、例の新しいメガネを受け取りにメガネ屋に寄った。受け取ってかけてみると、メガネが若干斜めになっているように思えた。そのことを伝えると、妻は「見え方に問題ないのならそのままでもいいのではないか」と言う。
私はそういう問題ではない、と反論した。私は、自分のメガネが45°くらい傾けて、「例えばこんなに傾いていてもちゃんと見えればそれでいいのか」と大げさにやってみせたところ、横で見ていた店員が爆笑していた。この店員は、下に書いたハートマークメガネの際も色々世話をしてくれており、一連の私たちのばかばかしいやりとりを見てきた方である。
メガネは少し調節してもらったが、やはり少し傾いている。私の顔が歪んでいるのだろうか。
ともあれ新しいメガネをかけ、南ヶ丘牧場に行った。私たちが一番時間を費やしたのは、なんと言っても動物ふれあいコーナーである。私たちは、動物ふれあいコーナーが好きである。これまでも野毛山公園でひよこと戯れたり、掛川花鳥園でエミュに追い回されたりした。
今回は、100円で動物用のえさを購入し、ヤギ、羊、牛のいる柵の中に入場した。
えさを持っていると、忙しい。動物たちをじらしたり逃げたり騒いだりしつつ、えさを全て使い果たせば、非常に平和な時間が訪れた。えささえ無ければ、動物に追い回されることも無い。ふと見れば、寝ている大きな羊の上に子ヤギたちが乗っかって大はしゃぎしている。羊とはなんとおとなしい生き物だろうかと改めて思った。子ヤギは、妻のスカートやらバッグやらを落ち着き無く噛んでいる。童謡にあるとおり、ヤギはこんな風に手紙も食べてしまうのかと思った。
一日遊んで帰路についた。新しいメガネのせいか、疲れた。
4月9日 ALWAYS三丁目の夕日
金曜ロードショーで「ALWAYS三丁目の夕日」を見た。かつて映画館で2回見たが、何回見ても素晴らしい。その時にも感想を書いたが、また書きたい。
映画は、全体を通して前向きである。建造中の東京タワーを見上げる人々の視線と、前向きに生きる姿勢が重なり、全体を通して明るく楽天的な雰囲気となっている。それは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の雰囲気とも似ているなぁと思った。
一方で、根底に流れる批判精神も読み取れる。「貧乏が、よかった」というのがこの映画のキャッチフレーズであった。「貧乏でも、よかった」ではない。「貧乏が、よかった」ということで、より意味が強くなる。一見、懐古主義的で優しさに満ち溢れているようなこの映画の根底を流れているのは、現代に対する強烈な批判精神であり、それがこの映画に魅せられる要因だと思う。
最後に、親子で完成した東京タワーに沈む夕日を見るシーンが印象的である。
母「夕日がきれいねぇ」
子「当たり前だよ!夕日は明日だって、明後日だって、50年後だってきれいだよ!」
母「そうだといいねぇ」
父「そうだといいなぁ」
妙に引っかかる言い回しである。昭和30年代に生きる彼らのキャラクター設定なら「そうだといいなぁ」とは言わないだろう。このセリフは、まるで50年後を知っているかのような言い方である。最後の最後に映画の本音が垣間見えるのである。
映画を見終わったら、妻が「目がウサギみたいになってる」と言った。何回も見ているのに、何回見ても泣いてしまうのである。
4月4日 メガネを探す
今日は、新しいメガネを探しに出かけた。今かけているメガネは、レンズが傷だらけになっており、前々から買い換えたいと思っていたのである。妻とともにメガネ屋巡りをした。
メガネ屋に行き、あらゆる色や形状のメガネを片っ端から試着してみた。しかし、これはというメガネはなかなか見つからない。殆どのメガネは、「暗い」「チャラい」「胡散臭い」「無難過ぎる」のいずれかの要因により却下された。適度に冒険をし、かつ自分らしさを失わないというのは、本当に難しい。意外なことに、置いてあるメガネを見ただけでは似合う、似合わないは分からず、実際にかけてみないことには分からないのである。メガネの奥深さを感じた。
そうこうしているうちに、今かけているメガネがなんと自分に似合っていることだろうと、改めて思った。似合うメガネは本当に少ない。それともただ私が見慣れたからなのか。折角メガネを買い換えるからには適度なイメージチェンジをしてみたい。かと言って胡散臭いキャラにはなりたくない。
そして、ひとつのメガネに巡り合った。そのメガネをかけた瞬間、「これだ」と思った。しかもレンズ付きで一万円と安い。私は即座にこれに決めようと思った。妻も、なかなか似合うじゃないかと言う。
ところが、私の横向きの姿を見た妻が、笑いをこらえつつ、それはやめた方がいいのではないか、と言った。なんと、フレームに可愛らしいハートマークがデザインされていたのである。形状や色がいくら気に入っても、ハートマークの付いたメガネをかける勇気はなかった。仕事や私生活で支障をきたすことは疑いようが無い。
私は、なんとかハートマークを消すことが出来ないか思いを巡らせた。そしてそれが不可能だと悟ると、店員に同じ形状でハートマークの無いメガネはないか聞いたが、無かった。私たちは、諦めて店を出た。
その後もメガネ屋巡りをしたが、色々試着しているうちに、だんだん何がなんだか分からなくなってきた。似合うとか似合わないとかの概念が分からなくなってきたのである。疲れてきたのかもしれない。そして私たちは、ハートマークのメガネの置いてあった店に舞い戻り、それと一番よく似て、かつハートマークの付いていない、私たちが「次点」と呼んでいたメガネに決めた。決めてしまえば、どちらでもよかったような気がしてきた。
それにしても、昔の私は、メガネなどは目が見えれば何でもいいと思っていたので、メガネのデザインなどには全く無頓着であった。そんな私がメガネをこんなに探すとは、我ながら変わったものだなぁと思った。
4月3日 春のうらら
4月になった。春である。これまでの寒さは薄れ、風は強いもののその風も温かみがある。4月一番の休日は、会社の駐車場で妻が車の運転の練習をするのに付き合った後、ジャスコに買い物に行った。ジャスコ店内のBGMで、滝廉太郎の「花」が流れていた。「♪春の〜うららの〜隅田川〜〜」で始まる有名なこの曲は、例え安っぽいインストゥルメンタルでも、春らしい晴れやかな気分になる。
ところが、魚売り場の近くを通りかかると、私たちは異様な雰囲気に包まれた。流れているBGMの音程が変なのである。「♪すみだがわーー」で伸ばす音は不安定に揺れ、音程も下がっている。民研の男声がアカペラの合唱曲を練習している時のような感じである。そのBGMのせいで、辺りは明らかにおどろおどろしい雰囲気なのだが、それでも買い物客たちはそんなことを気にせず、笑顔で買い物をしているのが、不思議であった。
隣の肉売り場まで行けば、また爽やかなBGMに戻った。どうやら、店内で流れているBGMは、各売り場ごとに個別のプレイヤーで流しているらしく、魚売り場のものはカセットテープが伸びきっていたようである。
私たちは、キャベツを買い忘れ、また魚売り場を通りかかった。また異様な雰囲気を体験することとなった。一番気持ち悪いのは、魚売り場と肉売り場の中間である。半音くらいずれた「花」がどちらも聴こえるため、気持ち悪さが倍増するのである。
キャベツを買って戻ると、今度は豆腐を買い忘れ、また魚売り場を通りかかるはめになった。店の人は気持ち悪いと思わないのだろうか。それとも私たちが敏感すぎるだけなのか。私たちはこの公然と流れる気持ち悪い「花」が逆に癖になってしまい、ジャスコを出た後も伸びきったテープをまねて鼻歌を歌うなどして、その雰囲気を楽しんだ。
まさしく春である。
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