2010年
6月のつぶやき




6月28日 ベルサイユのばら

 「ベルサイユのばら」を読んでいる。少女漫画を読む趣味はないのだが、妻が不朽の名作だというので、読んでみることにした。

 ページを開けば、「完全なる少女漫画の世界」であった。きらきら光る瞳と周囲に散りばめられた無意味な花の挿絵は、男の私には理解を超える。

 致命的なのは、いまだに顔を見てもどれがマリー・アントワネットか分からないことである。アントワネットとシャルロットとポリニャック夫人とロザリーを顔で判別することが出来ず、セリフや周囲の状況から推測しながら読むしかないのである。時には、アントワネットだと思い込んだまま数ページ読んでから、実はロザリーだったことに気付くこともあるので、非常に読みづらい。

 この漫画を通して、作者は何を伝えたいのだろうかということを考える。重税にあえぐ庶民をよそに贅沢三昧をする貴族たちを批判する図にも見えなくもないが、それにしては当の貴族たちがあまりに美しく優雅に描かれている。ただ単に、美しいドレスや装飾品の絵を楽しんでもらうために描いたにしては、それらに対して批判的過ぎる。

 今日になってようやく、この漫画は圧倒的な「愛」を描いているだということに気付いた。何よりも「愛」が優先する。それが正しいかどうかは関係ない。ひたすら「愛」のみを追求することが正当化される架空の世界を設定し、そこに生きる人たちのひたむきな姿を描くことで、年頃の少女の欲求不満を解消するのが、この漫画の役目だったのではないかと思った。

 今日は、外出だったため、「ベルサイユのばら」をかばんに入れて家を出た。新幹線の中では読んでいたが、さすがに混雑した埼京線の中では恥ずかしくて取り出すことが出来なかった。それほど体面を重んじる性格ではないはずなのだが、それでも周りの視線を気にしてしまった。新聞でも持ってくればよかったと思った。

 ちなみに、妻に上記のような屁理屈をこねたところ、「そんなことはどうでもよい」と一蹴された。


6月27日 消費税増税について

 7/11の参議院選挙に向けて、どうすればよいかということを考えつつ、NHKの討論を見ていた。消費税を10%に上げることがひとつの焦点となっているが、この点に関してどうか。私の個人的な考えでは、「上げる必要があるならさくっと上げろ!」と言うことである。本当に必要と考えるならば、政治家が国民に媚びる必要は無い。

 消費税の増税は、特に食料品などの生活必需品で低所得者層に対する悪影響が大きいとされる。しかし、大体、消費税が5%から10%に上がるということは、30円のもやしが31.5円になるということである。一庶民として言わせてもらえば、このくらいの増税で、庶民の生活が立ち行かなくなる訳がない。5%の差というのは、特売日を選べば十分に吸収できる程度である。最悪のケースでも、増税した分、摂取カロリーを5%減らしたところで、日本の庶民は逆に健康になるであろう。

 少なくとも、消費税の増税に対して文句を言える人は、増税しても間違いなく同じ暮らしが出来るといのが、私の考えである。スーパーで米ともやしと味噌と鶏肉が買えるくらいの人は、たとえ消費税が25%になっても同じように買えるし、たとえ買えなくても、その消費量を25%減らしたところで健康上何の問題もない。

 問題なのは、今の日本で本当に貧しい人は、たとえ消費税がゼロになったところで何の救いも無いだろうということである。ある日突然、得ていた収入がゼロになってしまった人に、消費税の増税も減税も何の意味も無い。ネットカフェを転々とする人に5%の増減税は何の意味もなさない。

 政治の本当の悪は、そういう人を生み出してしまうことであり、政治の本当の善とは、そういう人をひとりも出さないことにあると思う。最低限の生活が出来ている人に対して、政治が必要以上の配慮をすることは無い。その代わり、本当に困っている人をなんとかして欲しい。


6月26日 ロマサガ2

 先日、中古屋でスーパーアファミコンの「ロマサガ2」を購入した。1993年発売とのことであるから、もう17年も前のゲームである。以前、RPGの話になったときに、妻がやってみたいと言ったのがきっかけであった。

 ロマサガシリーズは、中学時代にかなりはまったゲームであった。神話的なバックグラウンドが充実しており、重厚感のある雰囲気が好きであった。ストーリーを自分で選べるという自由度の高さも良かったし、BGMも大好きであった。

 久々に見るロマサガの画面は、懐かしい。そして、昔プレイしたときには気付かなかった醍醐味も感じられた。城や町の人のセリフが非常にシンプルかつ事務的なのである。ストーリーも、どちらかというと淡々と進む。バックグラウンドは充実しているが、実際のゲーム進行自体は、情緒的な表現を出来るだけ排し、論理的な展開のみに重きを置く感じがする。とりあえず、拠点のアバロンから周囲の2〜3個の地域を制圧した。キャラクターも成長してきて楽しくなってきた。

 ところが昨日、セーブが全部消えた。やはりカセットが古いため、セーブも持たないのであろうか。妻が調べたところ、バックアップ用の電池を交換するサービスもあるらしく、電池交換して再挑戦するか、などと話している。


6月20日 NHK民謡フェスティバル

 今日、ごろごろ寝転がってテレビを見ていると、「NHK民謡フェスティバル」をやっていた。こんな世界もあるんだなぁと思ったが、私たちもかつてはこの世界に片足を突っ込んでいたのであった。

 民謡を聴きながら「昔の日本人は、のんびりしてたんだなぁ」と妻が言った。日本民謡の多くは、ひとつのフレーズを歌うのにとても長い時間をかける。それも他愛もない歌詞が多い。そして、その音色は豊かで、オペラのように一定の音色を大事にするのではなく、表現できる限りのあらゆる音色が使われ、音程についても西洋音階では表現できないような多彩な音程が次々と繰り出される。日本には、五線譜や楽典の世界とは全く違うベクトルで磨き上げられた音楽文化がある。

 特に素晴らしかったのは、味のあるオッサンたちの唄声であった。不思議なことに、日本文化の中には、本当に洗練された姿というのが、逆に垢抜けなくなるというか、肩の力が抜けるというか、適当になることがある。ドラゴンボールで最終形態になったフリーザがとてもツルッとして小さくなったのも、このような日本人の感性に合っているように思われる。ともあれ、味のあるオッサンの唄は心を動かす力がある。

 かつて民謡は、労働の辛さを紛らわすために歌われた。「田植え唄」「稗搗き節」「馬子唄」から「駄賃取り唄」なんてものまである。現代でも、「営業回り唄」とか「伝票処理唄」とか、「精密コーティング節」とか「自動車組立て節」とかあれば面白いのに。黙々と行う現代の労働は、本当の苦痛であろう。

 そんなことを話しつつ、妻と楽しく「民謡フェスティバル」を見た。それにしても、夫婦でこんな風に趣味が合うのは良いなぁと思った。民謡番組を見て盛り上がれる夫婦は世の中にそうはいない。


6月11日 目玉焼きの極意

 数日前NHKの「ためしてガッテン」で目玉焼きの作り方についてやっていた。ただフライパンを熱して卵を焼くだけの単純な料理にもコツがあるのかと思い、興味深く見た。番組によれば、ポイントはふたつ、これで目玉焼きの味が大きく変わるという。

@卵を割り落とすときは低い位置から優しく落とす
こうすることで黄身の細胞を壊すことがないため、固焼き、半熟にかかわらずクリーミーな黄身に仕上がるという。

Aまず黄身だけを焼いて、あとから白身をかける
黄身の水分を飛ばすことで味の濃い黄身に仕上がるらしい。古くなった卵でも産みたての濃厚な味になるという。また、こうすることで黄身と白身の焼き具合を自由に調節できる(例えば、黄身が固焼きで白身が柔らかい焼き方もできる)

 次の日、早速妻が上記に従って目玉焼きを作ったところ、驚くべきことに全然違う味の目玉焼きが出来た。特に@は重要で、10センチくらいの高さから割り落とすだけでも黄身の味は落ちるらしい。こんな些細なことに気をつけるだけでここまで味が変わるとは、「ためしてガッテン」の目の付け所のよさに感心してしまった。


6月9日 邪悪なもの

 出張の帰り、電車に乗ると、目の不自由な中学生の男女がシルバーシートに座って談笑していた。しばらくすると、中学生男子三人組が乗り込んできてスナック菓子を食べながら大声で話していた。スナック臭さと共に聞こえてくる彼らの会話を聞いて、私は普段滅多に体験しない嫌悪感を感じた。

「シルバーシートに座りたいから目が見えないふりをしている」
「目が見えないのにシルバーシートの位置が分かるのはおかしい」
「大人になっても仕事なんて出来ないから親の脛をかじって生きるしかない」

 とても邪悪なものを見た気がした。大声で、明らかに聞こえるように言っている。中学生三人組は、多少やんちゃな感じだがワルというほどでもない。この邪悪さは彼らのほんの一部なんだろうと思いたい。注意しようと思ったが、疲れていたことと、その会話が「彼ら」を指しているかの確信がなかなか持てず、結局しなかった。

 もし、同じことを自分の子供がしたとしたら、私は顔の形が変わるくらい殴るだろう。可哀想だが、そんな邪悪なものを持ったまま大人になるほうがもっと可哀想である。私にとって、中学生三人組がどんな大人になろうが知ったことではないから、放っておくことができたのである。

 電車を降りて、やはり注意すべきだったか、というようなことをしばらくぐるぐると考えてしまった。


6月5日 ブッダの呼吸法

 最近、呼吸法に興味を持った。理由をずらずら挙げると以下の通り。

・パパママ教室で、呼吸法は苦痛を和らげ、スムーズなお産を助ける効果があることを知った。
・学生時代、合唱の発声練習でブレスの練習があった。非常に難しく、4年間やってもうまくいかなかった。
・リコーダーの音色は息の出し方ひとつで変わる。同じ空気のはずなのに不思議だと思った。
・また、リコーダーのブレスが全然上手く出来ない。ただ息を吸うだけなのに難しいと思った。

 早速、出張帰りの駅の本屋で「ブッダの呼吸法」(高田明和著)を購入して読んでみた。著者は医学系の研究者であるらしく、宗教的な話や道徳的な話も入るものの、呼吸法の医学的有効性まで明らかにしながら展開している。なかでも、出会った重要な一文が以下。

「(呼吸は)自律神経の活動の中で唯一、意思で変えることができる機能なのです。」

 そういうことかと思った。心臓や胃腸の動きは自分の意思で動かしたり止めたりできない。呼吸だけが自分の意思で変えられる。逆に、呼吸によって自律神経の活動を調節できる。かといって、自律神経の活動だから、手足を動かすように思い通りにはいかない。リコーダーのブレスひとつでも難しいわけである。

 ここで記されているブッダの呼吸法は、簡単に言えば背筋を正し出来るだけゆっくり腹式呼吸をすること。これだけ。著者は、ひと呼吸45秒くらいで出来るようになって変わった、と言う。

 今日から早速やってみることにした。結構、息苦しい。


6月2日 首相辞任

 今日、働いていると、隣の人が「鳩山さんが辞任したらしいよ」と言った。仕事を終えてニュースを見たら、確かに辞任していた。

 鳩山元首相がどうであったかという話は置いといて、首相になりたいと思う気持ちとはなんだろうかと考える。

 私たちが働くのは、はっきり言って金が欲しいからである。まずその前提があって、その上でやりがいや自己実現を求める。しかし、首相になりたいと願うのは、金が欲しいからではないだろう。いくら給料が良くても、首相にのしかかる激務と責任の重さに比べたら割りに合わないと思う。それなのに「政治とカネの問題」が発生するのは誠に不思議だが、恐らくは「金が欲しい」という欲求とは別次元のものなのだろう。

 「首相になりたい」と思う最大の理由は、どの首相にとっても「日本を良くしたい」と奉仕的に願うからだろう。でなければあんな仕事を率先してやろうなどと思うはずが無い。それが大前提にあって、うまくいった、うまくいかなかったの議論が起こるべきだと思う。

 特に何が言いたいわけでもない。ただ、歴代首相が、メディアによってあたかも極悪人の如く叩かれるのは可哀想だなぁと思っただけである。

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