2010年
7月のつぶやき
7月24日 安積黎明高校合唱団定期演奏会
昨日は、妻と郡山まで安積黎明高校合唱団定期演奏会の定期演奏会を聴きに行った。安積黎明高校は全日本合唱コンクールで30年連続金賞を取り続けるなど、まさに日本一の高校合唱部である。
この合唱部は、民研の後輩、ユキがかつて所属していた。民研にいたころ、ユキからこの合唱部のことをよく聞いたものであった。彼女にとって、高校時代の殆どは合唱と共にあったらしい。驚くべきことに、パンフレットの手書きの字は、どれもユキの字体にそっくりであった。舞台での部員の歩き方も、ユキの歩き方にそっくりであり、合唱部の影響というのはこんなにも大きいのかと驚いた。
演奏は、素晴らしかった。まさか、プロローグの校歌で感動するとは思わなかった。その後も、美しい曲から難解で全く理解できない曲まで、さまざまな曲を3時間近く聴き続けた。初演となるはずの委嘱作品は、作曲が間に合わず演奏できなかったが、良い時間を過ごした。
彼女らの声は、独特である。ひとりひとりの歌声は、それほど際立って上手いわけではないのだが、全員で歌った瞬間、柔らかく心に染み入るハーモニーとなり、それでいてメリハリと訴求力がある。どうすればこんな歌声になるのかさえ、分からない。その発声方法や歌い方は、先輩から後輩に代々受け継がれていくのであろう。それは、残念ながらソロ歌手として活躍できるようなものではない。高校の三年間に限り、そしてその合唱団で歌うときに限り、絶大な能力を発揮する秘伝の技のように思われた。
印象的だったのは、客席の最前列を陣取っていた男子高校生たちであった。意外なことに、運動部と思われる日焼けした坊主頭の男子高校生たちが、熱心に合唱部を応援していた。彼らは、カジュアルなステージの時はアイドルグループを応援するように応援し、難解な曲のときは黙って真面目に聴き入っていた。安積黎明高校における合唱部のステータスの高さが窺える。
可哀想だったのは、男子部員であった。女子高から共学となって以来、男子部員も入ってきており、現在5人いるのだが、彼らは殆ど合唱ステージには参加できず、コスプレして寸劇するなどのピエロ役としてのみ存在していた。彼らは、合唱部の最底辺でひっそりと生きているように思われた。
男子部員も頑張って欲しいと思った。
7月20日 猛暑について
連日、ニュースの冒頭が猛暑の話題になっている。ニュースでは、連日のように熱中症で倒れる人のニュースが流れ、昔と違って朝夕も暑いから気をつけた方がいいとか、首周りを冷やすスカーフを買ったほうがいいとか言っている。
私の勝手な自説によれば、人間が耐えられる暑さ、寒さというのは、その人が住んでいる地域の最高気温と最低気温の範囲内であろうと思われる。即ち、その地域の最高気温あたりに達したとき、そこに暮らす人は「暑くて我慢できない」と感じるようになり、その地域の最低気温になったら「寒くて我慢できない」と感じる。「我慢できない」と感じるだけで、身体はその環境に耐える耐性を持っている。
例えば、エスキモーならば氷点下2℃くらいで耐えられないくらい暑いと感じるだろうし、熱帯の原住民ならば、20℃くらいでも震えるほど寒いであろう。もっと言えば、ホッキョクグマが北極で寒さに震えている姿は見たことがないが、動物園でぐで〜〜っとしている姿はテレビなどで見かける。
当然だが、夏場にはクーラーの下で暮らし、冬場には暖房の部屋で過ごせば、その人の耐えられる温度範囲は狭くなる。即ち、クーラーの下で快適に過ごしていた人が突然炎天下に出たとき、狭くなった温度帯を超えて熱中症等になるのである。一日中屋外で仕事をしている建設作業員や警備員が熱中症になったというニュースは聞いたことがない。クーラーのなかった時代に熱中症のことをここまで言われなかったのは、単に最近温暖化で最近暑いからではないだろう。大体、温暖化で熱中症が増えたというのならば、もっと南国に住んでいる人は昔から大変な目に会っていたはずである。
もちろん、私の勝手な自説なので話半分で聞いてもらいたい。それにしても、最近の熱中症と温暖化を短絡的に結びつける話題に違和感を感じる。それよりも、快適を追い求めるあまり、日本人の身体能力が低下したことの影響のほうが大きく、深刻な問題のような気がするのである。
7月19日 雄について
土曜日、だらだらテレビを見ていると、HNKでハチドリとライチョウについてやっていた。
美しい羽を持つハチドリは、メスの求愛のためにダンスを踊る。そのひらひらとした羽の動きは、本当に美しい。しかし、ダンスを踊りすぎて、その羽がぼろぼろになってしまった鳥や、片方を失ってしまう鳥などもいるらしい。一方、ライチョウは胸を大きく膨らませて、不思議な音を立てることで求愛する。多くの雄鳥が、一羽の雌鳥を求めて求愛している。雌鳥はそれらの多くには見向きもせず、一羽のボス鳥の元に向かっていく。雄というものは、雌に認められることに人生(?)の全てをかけているように思われた。
これを見て、人間の男も同じであろうと思った。大体、男が一生懸命働いたり、スポーツや音楽などに没頭したりするのは、結局は異性によく見られたいという思いに帰結するのではないだろうか。もしも世の中に女性が一人もいなかったら、私は仕事も趣味も、その他自分のパフォーマンスを向上させることの全てを放棄しているかもしれない。より多くの異性に認められ、自分の子孫を残したいと願うのは、男の本能であろう。
ということを、一緒にテレビを見ていた妻に述べたところ、「では、あなたも私以外の多くの女性と結びつきたいと考えているのか?」と聞かれた。
私は即座に「当然だ」と言い放った。当然、私の「雄」としての本能は、それを求めているはずである。「しかし、私は人間であり、理性的動物である。よって、そういった本能を理性で押さえ込んでいる。私は理性で君を愛しているのだ」 私は続けてそのような意味のことを言った。
妻は納得したようであり、のんびりと土曜日の午後は過ぎた。
7月18日 ぶらぶら
今日は、午前中は、職場の後輩の出場するテニス大会を見に行った。テニスは、これまで一度もやったことがなく、かつ最も興味のないスポーツのひとつであったことから、逆に興味しんしんであった。興味がないからこそ興味がある。
試合の形式はミックスダブルスで、一般の部のほか、100歳の部、120歳の部などがある。なんのことかと思ったら、二人の合計年齢らしい。60歳以上でも、上手い人は上手いらしい。確かに、試合を見ていると、上手い人ほど全然動かなくても球を返すことが出来ている。まるで自分のところに球がやってくるようで不思議であった。
残念ながら後輩は負けてしまったが、楽しいひとときであった。
その後は、他の後輩の出る民謡コンクールへ。私たち夫婦は、学生時代に民謡をやっていた関係上、民謡番組をやっているとああでもないこうでもないと言いながら全部見てしまう。それでも、民謡大会を見に行くのは初めてであり、非常に楽しみであった。今回は、県大会らしい。
各部門と出場者数は以下の通りであり、非常に年齢層が高い。
白寿の部:78歳以上・・・22名
寿年の部:74〜77歳・・・12名
高年の部:67〜73歳・・・20名
中年の部:60〜66歳・・・15名
壮年の部:50〜59歳・・・11名
成年の部:30〜49歳・・・3名
青年の部:15〜29歳・・・2名
後輩は青年(あおねんと呼ばれていた)の部であり、2名のうち勝ったほうが優勝となり、両国国技館での全国大会に駒を進めることになるらしい。
後輩は、非常に上手であった。味のある歌い方で、青年の部優勝となった。恐らく出場者の中で二番目に若く、将来の民謡界の宝であろう。この世界は縦社会らしく、若いぶん色々大変そうでもあったが頑張って欲しいと思った。
その他、すごくお気に入りのオッサンがいた。どこかのお師匠さんらしいのだが、突然飛び入りで、音程を外しまくった唄を自信たっぷりに披露した後、歌い手の音程よりも半音低い尺八を自信たっぷりに吹いた。その姿が非常に面白く、私たちは必死で笑いをこらえながら鑑賞した。
表彰式は、ぐだぐだであった。途中で表彰状が足りなくなってしまったらしく、買いに行っている最中らしい。仕方なく、草津音頭やらナントカ音頭などを会場のみんなで歌うなどの場つなぎをしている間に、観客はどんどんいなくなってしまった。仕方なくトロフィーだけの表彰式をして、閉会の言葉を言い終わったところで表彰状が出来上がり、閉会したあとに表彰状が読み上げられるという、異例の事態が発生していた。
非常に楽しい時間であった。その他ここには書ききれないくらい色々なことがあり、非常によかった。ちなみに、民謡において妻と共通している好みは「味のあるオッサン」である。将来、ああいうオッサンの茫洋とした味わいを出すか、それともアリエッティの父親のようなカッコよさを追求するか、非常に悩んでいる。
7月17日 映画館へ
凄く久しぶりに映画館に入った。妻と「借り暮らしのアリエッティ」を見に行ったのである。
映画館に入れば、ポップコーンの匂いがした。映画館といえばポップコーンである。巨大なポップコーンとコーラの容器を手にして映画館に入っていく姿はいかにもアメリカ的、というよりは、デフォルメされた「アメリカ風文化」という感じがする。せっかくだから日本のファストフードである寿司と番茶、とか、おにぎりと味噌汁といった組み合わせがあってもいいのに、映画館に来たときだけ判を押したように普段食べないポップコーンを食べるのは誠に不思議である。
ちなみに私は、映画館では飲み食いしない主義である。映画の中での恋や友情の物語や、困難に立ち向かう主人公などに感情移入する自分と、一方で食欲に負けてぼりぼりとポップコーンをかじる堕落した自分との落差に耐えられず、後ろめたく感じてしまうからである。
「借り暮らしのアリエッティ」は面白かった。というより、なんという凄い映画であろうかと驚いた。小人の視点から見た世界は、単に拡大しただけではない。水の質感から粘着テープの粘り具合まで全てが未体験の世界である。何気ない日本家屋の台所や寝室が、驚きの世界として描かれているのは本当に凄い。
そして、父親がかっこよかった。初めて娘を「借り」に連れて行く寡黙な父親の姿はかっこよく、私も娘が大きくなったら嫁を置いて娘と旅に出たいと思った。
7月13日 選挙もろもろ
3年前、ブータンに新婚旅行に行った時、各地でブータン初の総選挙の準備をしていた。当時のブータンは絶対君主制であったのだが、国王自らが多党制民主主義への移行を提案したのである。国王は絶大なる信頼を得ており、政治を民衆の手に委ねるべきと考える国王と、これまで通り国王による政治を望む民衆という、聞いたことのないほど平和的な譲り合いによる民主化が進められていた。
ブータンの選挙は、機械を使用した投票であり、ゾン(役所と僧院が一体となった建物。ブータンでは政教一致が原則である)では投票機の動作確認などをのんびりと行っていた。寄り合いのように政党が発生し、テレビでは私たちの分からない言葉で新しい国づくりについての議論をしていた。
初の選挙に向けて、人々は興奮しているようであった。投票の時には、何時間もかけて投票所まで歩いてくる老婆もいたらしい。「民主主義は治安が悪いから嫌だ」と、当たるとも遠からじな発言をしているオジサンが新聞に載っていた。
話は変わるが、今回の参院選の際、選挙を終えたときもらえる「投票済票」を提示することで、ホテルや温泉が割引になるというニュースを見た。「投票済票」は、欲しい旨を伝えないともらえず、ぜひもらったほうがお得であることと、欲しいと言わなければもらえないお役所仕事はいかがなものか、という議論がなされていた。
なんという下らない話かと思った。ブータンで見た、自分たちで国を作るんだという感覚は全く見当たらない。国が大きくなって成熟しても、原点にはブータンのような高揚感があったであろうし、選挙はそれを身をもって体験できる機会である。ホテルの割引が欲しいから選挙に行くなんて、考えられないし、それで投票率を上げようと考えるほうも頭がどうかしているとしか思えない。
また話は変わるが、岡部まりさんが落選したのは、彼女が小沢氏に近かったからではなく、「探偵!ナイトスクープ」があんなにむさ苦しくなってしまったことを憂慮してのことであろう。これは、関西人にとって、精神衛生上とても重要なことであり、秘書への復帰を望む。
7月7日 有給にて
今日は、有給を利用して会津に行った。妻の希望でさくらんぼ狩りに行き、鶴ヶ城を見学する小旅行となった。
さくらんぼ狩りは楽しかった。平日のため、他の客はほとんどおらず、制限時間30分とされていたところを、日が暮れるまでいても良いと言われ、のんびりとさくらんぼをもいでは食べた。さまざまな種類のさくらんぼが植えられており、食べ比べが出来るのが良い。さくらんぼが種類によってこんなに味が異なるとは思わなかった。
私たちが特に気に入ったのが「南陽」という種類のさくらんぼで、噛むと果汁がほとばしる様に口中に広がる。土産としてこれを購入した。さくらんぼ好きの妻は、鶴ヶ城でもこれを大事に持ち歩いていた。
その後、昼食をとって鶴ヶ城に行った。城内に入れば、甲冑を身に付けた女性職員が展示物を丁寧に解説してくれた。平日は職員も暇らしく、つきっきりで解説してくれた。「火縄銃はなかなか使い勝手がいいんですよ、少なくとも明治政府が輸入したゲーベル銃なんかよりもずっとね、だから昭和の時代まで使ってました。まあ射程距離が50mくらいしかないのと、手順が複雑なんで慣れた人でも撃つまでに15秒くらいかかっちゃいますけど。」と臨場感たっぷりの解説をしてくれた。ずいぶんお詳しいですね、と言うと、「一応140年前から生きてる設定になってますから」と笑っていた。
続いて、会津藩校「日新館」の「什の掟」について。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
最後の「ならぬことはならぬものです」が良いと思った。「駄目なものは駄目なんだ」これは教育においては証明不要な公理の性質を持っている。「なぜ年長者の言うことに背いてはいけないのですか?」「なぜ戸外で婦人と言葉を交えてはいけないのですか?」「なぜ人を殺してはいけないのですか?」これらを説明する必要は無い。「駄目だから駄目」なのである。
「ならぬことはならぬものです」これを大前提としない限り、教育は成立しないのである。
7月4日 「ベルサイユのばら」読了
「ベルサイユのばら」をようやく読み終えた。少女の気持ちが全く分からない私にとって、その過程は苦痛に満ちたものであったが、なんとか全部読んだ。どちらかと言えば、歴史的色彩が濃くなる後半のほうが読みやすかった。
そのストーリーは、衝撃的であった。この漫画は、全編を通して不気味な下降音形をたどる。端的に言えば、最初が一番幸せで、最後が一番不幸なのである。この漫画をどうとらえたらよいのか、まだ分からない。
単に、「不幸な運命に翻弄されながらも力強く生きていく美しい姫の話」とも言えない。なぜなら、そういった不幸に至るのは、純粋に「運命」という外的要因ではなく、マリー・アントワネット自身の愚かな行為による影響が少なくないからである。だからといって、「愚かな姫の愚かな行為により、天罰が下る話」とも言えないだろう。ここには、姫の優しさや無垢な部分だけでなく、王女としての芯の強さまで余すことなくあまりにも魅力的に描かれている。
この漫画は、人間の愚かな部分と、それゆえにたまらなく魅力的な部分が、どろどろと混ざり合っていることを描いている。そしてそこが魅力的なのだと思った。人間は、一概には言えない。だからどうというわけではなく、一概には言えないということだけが、華やかな絵とは裏腹に意外なほどに淡々と描かれている。
それにしても、少女漫画特有の過剰な表現がどうにも受け入れられず、素直に感情移入できなかったのは悔やまれるところであった。そういうシーンを指さして、「これは笑いを取るためのジョークなのか、それとも大真面目なのか?」と妻に聞いたら、怒られた。
7月2日 教育について
ふと、「教育」という分野は、非常に重要だと思った。技術者、芸術家、職人、スポーツ選手など、あらゆる職業の人々は、その職能を会得、発揮するのは人生の前半においてのみであり、ほとんどの場合、人生の後半においてはいずれの職業においても「教育」が重要なキーワードとなる気がする。もちろん、人生ぜんたいを通して個人の職能ひとつで生きていく方法も無いわけではないが、これは稀なケースであろう。「教育」について考えることは、いずれの職業についても重要である。以下、内田樹氏の「日本辺境論」より引用。
私たちがものを学ぶとき、私たちは師を選ばなければなりません。ところが、私たちがこれから学ぼうとしている技芸や学問についてはたくさんの専門家がいて、それぞれに流派を立て、持論を説いている。私たちはその中から「自分の師」を選ばなければならない。でも、私たちにはどの人が私の師にふさわしいのかを俯瞰的視座から言うことができない。というのも、その技術や知識について俯瞰的視座から一望することができないということが私たちがそれを学びたいと望んでいる当の理由だからです。
ほとんどの場合、私たちは学びたいと望んでいることについて重要なことを何も知りません。「どうでもいいことを少しだけ知っているが、肝心なことは何も知らない」というくらいの無知なレベルにいるときが、ものを学ぶ動機はもっとも高い。
私が私の師を選んだとき、私はいくつかの選択肢、何人かの師を比較考量し、吟味の上で、その中で客観的に見てもっともすぐれたものを採用するということをしていません。そして、私たちはそれがおかしいとは少しも思わない。師に就いて学ぶというのはそういうことだからです。
そういうとき、「なんだかわからないけど、この人についていこう」と清水の舞台に飛び込むような覚悟を持つことが出来ることについて、日本人は例外的な才能に恵まれている、と内田氏はいう。そして、その師は、弟子に毎日廊下の拭き掃除と便所掃除をさせる。続いて同書より引用。
師は澄まして「これが修行である」と言い張る。弟子は困惑します。困惑のあげくに、「先生が私に無意味なことばかりさせるはずがない。ということは、私は意味のあることをしているのだ。つまり、先生はあまりに偉大なので、そのふるまいが深遠すぎて、私には「意味」として察知されないだけである」というかなり無理のある推論にしがみつくことになります。「私は意味のあることをしている」という「正しさ」を立証するために、「私は何に意味があるのか、よくわかっていない」という「愚かさ」を論拠に引っ張り出す。おのれの無知と愚鈍を論拠にして、おのれを超える人間的境位の適法性を基礎づける。それが師弟関係において追い詰められた弟子が最後に採用する逆説的なソリューションなのです。
「私はなぜ、何を、どのように学ぶかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」、これが学びの信仰告白の基本文型です。
この仕組みの良さは、仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であっても、その人を「師」と思い定めて、衷心から仕えることで、弟子が育つとことであると、著者はいう。
内田氏の本を引用していたら、なにを言いたいのか分からなくなった。本書によれば、日本という国は師弟関係の構築には有利そうである。そして、その有利さというのは、日本が辺境国であることが源流にあるという。
それにしても、教育というのは誠に難しい。重要なのは、焦らないことだというのが、上記の著書や私の経験からの教訓である。毎日便所掃除と廊下の拭き掃除をさせる程度でよい。そう思いながら、なかなかそう出来ないのは、私の器が小さいからであろう。
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