2010年
8月のつぶやき




8月28日 ガッツ石松卒業

 昨日の朝、妻が退院した。そして、昼過ぎ、妻と退院後のサチコのために、妻の母が博多から来て下さった。近くに親戚のいない私たちにとって、非常に心強い。初めての子育てを慣れない土地でするのは不安であった。

 今日は、3人でに病院に行った。サチコは生後一週間でずいぶん表情が変わっていた。なんというか、人間らしくなった。妻によれば、生まれたばかりの赤ちゃんは誰もがガッツ石松のような顔をしているらしい。言われてみれば、そう見えなくもない。今日サチコは、ガッツ石松を卒業していた。

 妻と妻の母は、どちらかといえば私に似ていると言っていたが、私にはまだよく分からなかった。


8月27日 来年も来いなぁ

 久しぶりに、凄い番組を見た。何気なくテレビをつけたらやっていた、NHKのワンダフル東北「来年も来いなぁ〜山形県大井沢の短い夏」である。

 過疎化の進んだ山あいの村に、湯木慎治カメラマンが単身入り込んで日々の様子を撮影するだけの内容だが、その映像の美しさに息を呑んだ。ひとつひとつの映像から、カメラマンの思い入れと慈しみがにじみ出ている。私は、姿勢を正し、釘付けになって映像に見入った。驚くべきことに、登場する人々は全くカメラを意識していない。普通に日々を生活し、老夫婦が穏やかに笑い、少女が泣き笑い、子供たちがラジオ体操をする。カメラマンが、空気のようにこの村に溶け込んでいなければ、こんな映像は撮れないだろう。

 そして、老夫婦の家で夏を過ごし、子育てをして旅立ってゆくツバメたちと、都会で暮らす子供や孫がお盆に帰省してにぎやかなひとときを過ごす姿が重ね合わされる。何気なく日常を撮っているかに見える日常の風景にも、絶妙な番組構成が存在し、強い説得力を持って訴えかける。

 番組の後半、お盆にみんなで食べる食事の席で、「じいちゃんも何か喋りなよ」と促され、「おれはいいよ。なんにもない。」と言ったシーンが忘れられない。じいちゃんは心から幸せそうであった。「なんにもない」は、言葉にする必要がないほど幸せだということだろう。

 再放送は8/28 AM10:30〜。東北地方限定のようである。ビデオ録画しようと思う。


8月24日 事務手続き

 月曜日、午前休を取って市役所に行った。出生届を出せば、一瞬にして住民登録がなされ、田所幸子は「市民」であり「日本国民」となった。続いて、子供手当ての申請、こども医療費の申請など、さまざまな書類に住所、氏名、生年月日などの必要事項を記入した。

 一通りを終え、会社に行った。会社では、扶養家族の異動届、健康保険組合のナントカ申請、労働組合のナントカ給付申請などなど、さまざまな書類に住所、氏名、生年月日を記入して捺印した。そのうち、何がなんだか分からなくなり、私の机はカオス状態となった。市役所で、「これは会社の総務などで書いてもらってください」と言われた書類があったので、これを総務に書いてもらおうとすると、「書いて欲しい旨を依頼するための申請書」なるものが存在するらしく、更に書類は増えた。殆ど仕事らしい仕事はせず、書類ばかり書いていた。

 それでも、これらひとつひとつが結構な金額の補助となる。面倒臭がらずに書かねばならない。


8月22日 幸せについて

 以前にも書いたが、「幸」という字は、手錠を表した字であるという。「幸」の字を横向きにすれば、確かにそう見える。「(死罪等にならず)手錠をかけられる程度で済んでよかった」というのが、「幸」の字の語源である。

 「幸せである」ということは、「happyである」ということとは明らかに違う。「幸せである」ということは、裕福であるということでもないし、快適であるということでもない。もちろん、熊のぬいぐるみが、存分にはちみつを食しているということでもない。もっと素朴で、いとおしく、ささやかな言葉であろう。

 大変心苦しいが、未来が明るいと、手放しで言うことはできない。不安定で激動の時代に当たるかもしれない。そんな中、君は、不愉快で苦痛であるはずの手錠の形が、あらゆる言葉の中で最も素晴らしいことを表すという、不思議な国に生まれたのである。

 君を「幸子」(サチコ)と名付ける。君の「幸せ」の願いを込めて。


8月21日 誕生

 8月21日 13:40頃、待望の娘が誕生した。体重2070gと小さいが、元気である。以下、その経緯。

 朝、病院に行くと、妻が苦しそうであった。周期的に腰痛が来るらしく、私は5分おきくらいに指示された場所をさすり続けた。それにしても、予定日まで1ヶ月以上早い。大丈夫と信じつつも不安であった。

 12:30。妻が分娩室へ。ご主人は病室で待っていてくださいと言われ、ひとり待つ。

 病室でひとり座って待ってると、自分がいかに取るに足らない存在かということを思い知らされる。妻も病院のスタッフも大変な中、私だけが「使えない人」として座っている。落ち着かず、廊下をうろうろしたりしてみる。

 しばらくすると、詰所の前のランプが光り、誕生したことを知った。お産まで一時間程度であった。

 妻が後で語ったところによれば、壮絶であったらしい。

 まず、診察室まで歩いていくと、いつも診察する部屋の奥のカーテンが厳かに開かれた。そこはこれまで見たことのない部屋であり、中央に分娩台が置かれていた。そして、その上で子宮口が全開大となるまで我慢しなければならないのだが、それが非常に苦しかったらしい。なかばパニック状態であったという。

 もう限界だと思ったその時、これまでの検診では見たことのない女性が現れた。彼女は、他の看護士とは違う格好をしており、柔らかな物腰でカリスマ性があったという。そして、彼女は、まるで神のお告げの如く、厳かにこう言ったという。

「それではお産をはじめます」

 それから、妻は必死でいきみ、3回のいきみで生まれたらしい。いきむたびに、その女性が、柔らかな物腰とは想像もつかない凄い力で、手を突っ込んで赤ちゃんを引き出してくれたという。彼女こそ、この町医者の影のボスであったと、妻は語ってくれた。お産はまるでRPGのラスボス戦のようであったと妻は言う。


 分娩室に入れば、妻はぐったりしていた。そのまま夜まで妻と上記のような話をのんびりした。

 帰り際、生まれた娘を見せてもらった。かなり小さいが、元気である。そして、可愛らしい。一般的に、生まれたばかりの赤ちゃんはシワシワで猿のようだとかエイリアンのようだとか言われる。

 しかし、自分の子供は可愛い。どうしようもなく可愛い。早く抱きたい。


8月20日 入院の週

 先週の日曜日の朝、早産の危険性があるとのことで妻が入院した。現在は落ち着いており、お腹の中の娘も順調に育っているとのことである。その一週間を箇条書き。


<日曜日>

 夜になれば、点滴と薬の効果で落ち着いてきた。病室でふたりでまったりしていると、どこからともなくお囃子の笛の音が聴こえてくる。不思議な音色である。まるでずっと昔からあるような、土臭さを感じる音であり、妻としばらく耳を傾けていた。

 少し表に出て笛の音のする方にふらふら歩いていくと、消防団の詰所に行き着いた。厚かましくも中に入って見学させてもらった。

 中では3人の子供と3人の大人が篠笛の練習をしていた。9月に行われる白河提灯祭の練習らしい。子供の一人が、瓶入りのウーロン茶を持ってきてくれた。いきなり現れた私にこんなに親切にしてくれるとは思わず、嬉しかった。

 帰り際、またいつでも来ていいよ、と言ってくれた。病院に戻り、妻と少し話をして帰宅した。

 夕食は、ご飯、なめこ汁、正嗣の餃子。正嗣の餃子は、冷凍庫の匂いが移ってしまって臭い。

 願をかけて、無事に子供が生まれるまで酒を断つと決める。


<月曜日>

 出社前に病室に寄った。少しお腹が張るとのことであったが、前日よりは良好であった。仕事始めであったが、妙に忙しく、帰りは面会終了30分前の8時半にようやく病室に滑り込んだ。

 夕食は、ご飯、えだまめの中華スープ、卵豆腐、正嗣の餃子。正嗣の餃子は、にんにく入りのスープを作って水餃子として匂い消しを図る。

 昨日よりも臭い。


<火曜日>

 出社前に病室に寄った。前日よりは良好とのこと。帰りは、この日も忙しく、病室に行けたのは面会終了30分前であった。職場で配られた菓子等を差し入れ。暇つぶしにと、「ホームズくん史上最強の難問」をプリントアウトして持っていく。

 夕食は、ご飯、えだまめの中華スープ、冷奴、正嗣の餃子。正嗣の餃子は、多めの油で全面をカリッと焦げ目を付けて冷凍庫臭を誤魔化すことを試みる。

 昨日よりも良好。そして、ようやく正嗣の餃子はなくなった。次からはさっさと食べてしまおう。


<水曜日>

 出社前に病院に寄る。帰りは早めで、7時半頃には病院に行けた。妻は相当暇そうである。起き上がることもお腹の張りを引き起こすらしく、食事とトイレ以外は寝ていなければならない。暇つぶしに、相馬で食べた名物「凍み天」の特許広報を持参する。(特許第3076978号)「凍み天」は、福島の郷土料理である「凍み餅」を集めの衣を付けて揚げたおやつである。特許広報によれば、「主食、副食、茶菓子いずれにも対応可能」と書かれているが、妻と「茶菓子以外は無理だろう」と突っ込む。

 夕食は、ご飯、えだまめの味噌汁、真空パックの焼き鳥。家にある残り物だけでいつまで夕食を作れるか、試してみようと思う。多分、相当いけるだろう。ホッシーが送ってくれたえだまめが大量にあるので、これは毎日食べている。


<木曜日>

 今度は「トンデモ特許」で検索し、面白い特許広報をプリントアウトして持っていく。これらは、本当に公開されているものである。

○「天気を晴天にする方法」(特開昭59-89600)
 「今日晴天にして下さい」と述べ、規定の方法で毎日お祓いをすることでそのうち晴天になるという。台風の日であっても、同様の効果があるらしい。
 毎日やってればそのうち晴天になるのは当たり前じゃないかと、妻と突っ込む。

○「全総はげ頭一括増毛器」(特開平5-171504)
 妻は題名を見ただけで笑い転げてしまい、これ以上見ると笑い過ぎて産んでしまうかもしれないとのことであり、これ以上見せないことにした。内容は割愛するが、相当面白い。

 夕食は、うな丼、えだまめの味噌汁。うなぎは妻のレッスンに行った際、クミちゃんに貰ったもの。有難く戴く。


<金曜日>

 妻は今日は検診だったらしいのだが、出産まで退院は難しそうな感触であったとのこと。お腹の子供は元気とのこと。

 今日の夕食は、じゃことキムチのチャーハン、えだまめ。家に食材はまだまだあり、まだまだ買い物にいかなくても食べ続けられそうである。


 考えてみれば、妻とふたりで過ごす最後の時間である。毎日朝と夜に、静かな病室でのんびり話をすれば、とてつもなく幸福である。せっかくだから、この時間を大切にしようと思う。


8月14日 相馬旅行記

 一泊二日で、相馬へ旅行に行った。来月には妻も臨月となり、遠出は難しくなる。夫婦でのんびり出来る最後の旅行であろう。

 「県内で一泊二日くらい」で考えており、相馬か会津に行こうと考えていた。パパママ教室で知り合ったフジタ夫妻や、相馬出身の会社の後輩、ナナマルなどに聞いても、皆一様に「相馬は何もないからやめたほうがよい」と言う。会津のほうが面白いとのことでった。

 あまりに皆が「何もなくてつまらない」というので、逆に妻は行ってみたくなったようであった。私は、2003年8月のつぶやきに書いた通り、一度行ったことがあり、とても満喫できた記憶がある。そんなこんなで相馬に行くことになった。ホテルは前日の夜に予約するという、相変わらずの行き当たりぱったり旅行である。具体的なプランも、殆ど無い。


<百尺観音>

 「相馬といえば百尺観音」。それほど、過去に見た百尺観音に対する印象は強烈であった。相馬についてすぐに、百尺観音の参拝に向かった。

 7年ぶりに見る百尺観音は、相変わらずのド迫力であった。奇跡のような光景である。一人の男が「感ずるところがあって」作り始め、親子3代に渡って現在も未完成の磨崖仏は、見るものを圧倒させる。

 「参拝のしおり」によれば、百尺観音は昭和六年に荒嘉明氏により着手されたらしい。彼は「千体の仏像を作るよりも生涯で一体の超巨大製作をなし、ながく後世にこれを残そうと決意した」のである。世間の人々はこれを「誇大妄想狂として冷評雨の如く、ほとんどそれを信ずるものとてなかった」らしいのだが、不屈の意思で一人岩場でつるはしをふるい続け、62歳で完成を見ることなくその生涯を終えた。

 そして、その遺志を引き継ぎ、現在3代目が完成に向けてがんばっているとのことである。現在八十八尺で、完成すれば百十八尺となり、日本一の巨大仏像彫刻となるらしい。この圧倒的な迫力の仏像と男のドラマに感動する。感動のあまり、世界遺産に登録されてもよいのではないかとさえ思う。

 それにしても、地元の人の認知度は低い。民研の後輩で相馬出身のキエによれば、小学生の頃に遠足で百尺観音に行き、指差して「鼻水観音」と揶揄したそうである。確かに、顔の部分が鼻水を垂らしているように見えなくもない。現在でも「冷評雨の如し」である。


百尺観音像


<松川浦>

 百尺観音を拝んだ後は、松川浦へ。松川浦は、砂州により外洋と隔てられて出来た汽水湖で、独特の地形をしている。松の植えられた美しい小島を散策したり、カニや貝などの生き物を観察したりしてのんびり楽しんだ。

 松川浦には、「ふるさと相馬」という歌の歌碑があり、これに近づくと自動演奏が始まるという、ハイテク歌碑があるのだが、ここでのんびり「ふるさと相馬」を聴いた。「ふるさと相馬」は、同じ歌詞で「フォーク調」と「演歌調」の二種をの歌を持つ、世界でも珍しい歌なのである。

 メロディを聴き比べれば、フォーク調はふるさとの大事な人への思いが重視され、演歌調は漁師町の雰囲気が重視されているようであった。確かに、どちらがいいとも言えない絶妙な作りになっていた。編曲だけでなく、メロディも大幅に異なることに妻が驚いていた。


左:松川浦の風景                           右:「ふるさと相馬」の歌碑


<相馬盆踊り大会>

 「百尺観音を見たよ」とキエにメールしたら、今実家にいるので会いましょうということになり、キエと3人で相馬盆踊り大会へ。

 盆踊りは、味わい深かった。殆どの地域の盆踊りは、地元の盆唄を持っておらず、炭坑節やアラレちゃん音頭などのテープをかけて、地元のオバチャンが踊っているだけだが、相馬盆踊りはやぐらの上で相馬盆唄を生演奏して、これを延々と踊るのである。しかも、輪は幾重にもなり子供から老人まで思い思いに踊る。決して大きなお祭ではないが、素朴で味わい深いこの民謡は、歴史の風格を感じさせる。

♪ハアーアーイヨー 今年ァ豊年だよ
 (アーコーリャコリャ)
♪穂に穂が咲いてヨー
 (コリャショ)
♪ハアー道の小草にも
♪ヤレサー米がなるヨー

 しばらく一緒に踊っていると、一旦区切られ、「仮装盆踊りコンテスト」なるものが始まった。これは可哀想なくらい盛り上がっておらず、10名程度の人たちが着ぐるみ等の派手な衣装を着て、寂しく踊っていた。ずっと盆踊りをやっていればいいのにと思った。

 仮装盆踊りを尻目に、キエの実家にお邪魔して歓待を受けた。父A型、母B型、キエO型、妹AB型というバラエティに富んだ家族の話はとても楽しく、深夜までおしゃべりをして楽しい時間を過ごした。


左、中:驚くほど盛り上がる相馬盆踊り大会                 右:仮装盆踊りコンテスト。驚くほど盛り上がらない。


<二日目>

 朝起きたら、チェックアウト寸前であった。慌てて準備をして、ナナマルが刺身が美味しいと教えてくれた「斎春」へ。ブランチに刺身定食とエボダイ定食を食べたのだが、本当に美味しい。満腹になったところで、南下した。今日の目的は、浪江町の大聖寺である。

 途中、原町でナナマルと落ち合い、軽くお茶をした。本当に、全国色々なところに知り合いがいて楽しい。

 その後、浪江町の大聖寺に行った。大聖寺は居酒屋の箸袋などで有名になった「親父の小言」を作った暁仙和尚がいた寺らしい。確かに、我が家にある「親父の小言」の額を見れば、「相馬藩大聖寺暁仙僧正」と書いてある。

 大聖寺には、「親父の小言」についての情報は何もなかった。しかし、美しい寺の風景は心が落ち着いた。


左:大聖寺の参道                         右:入り口

 ちょうど寺を後にするとき、雨が降ってきた。この小旅行も終わりである。本当に、よいタイミングで雨が降るなぁと感心し、そのまま帰路についた。なんとなく、良い出産が出来そうな気がしてきた。

 家に帰れば、民研の先輩、トイダさんから暑中見舞いが来ていた。矢吹に住んでいるらしい。本当に近くに知り合いが多いなぁと思った。ともあれ予想以上に楽しい最後の小旅行であった。



8月11日 走る

 神輿を担ぎ終えて入った銭湯で体重を量ったら、意外なことに太っていた。かなりの運動をしたはずだが、それ以上にお旅所で飲み食いした分が上回っていたらしい。

 さて、下にも書いたように、ロマサガ2にはまってしまった。ロマサガ2をやっていると、ゲームの中の皇帝はどんどん強くなっていくが、その反面私はどんどん堕落して行き、体を動かすのがより億劫になってくる。こんなことではいけない。私はゲームの電源を切り、外に走り出た。

 走りながら考えたこと。「夏にスウェットスーツを着て走るのと、冬に半袖短パンで走るのとどちらがより効率よく痩せるか。」

 感覚的には、前者であろう。前者は、大いに汗をかく。汗の気化熱で上がり過ぎた体温を下げるのである。しかし、前者はただ汗が出ているだけで、水を飲めば元に戻る。小便をして体重が減るのと何ら変わりはないはずである。体の脂肪を燃やして痩せるということにはならない感じがする。

 寒い中を走るほうが、体の体温を上げるために熱量が使われ、より痩せるのではないだろうか。人間は恒温動物である。体の体温を一定にするために色々な機能が働く。寒い中にいれば、体を温めるためにエネルギーが使われるはずである。しかし、同時に寒さから身を守るために脂肪をより貯め込むのではないだろうか?

 走りながら、いつもこんなことを考える。そのうち、考える余裕もなくなってきて、へろへろになって帰宅した。気付けば炎天下を10キロ近くも走っていた。体重を量れば2キロも痩せていた。

 まあ、上記によれば汗が出ただけなのだろうが。


8月10日 夏休み

 今日は、朝起きて飯を食い、フルートを少し練習して昼飯を食い、その後はずっとロマサガ2をやっていた。クッションに寝転がってひたすらロマサガ2をやった。ゲームにはまる時の、この重苦しい感覚は久しぶりである。別に楽しくてやっているわけではない。どちらかといえば辛くて面倒臭い。ロマサガ2は、そこら辺にいるザコ敵でも恐ろしく強いという、非情なゲームである。それでもまるで義務であるかのようにゲームをし続けてしまった。

 いかにも「夏休み」という感じの一日であった。


8月9日 神輿を担ぐ

 週末は、元宮のお祭に参加し、神輿を担いだ。今年は、福島に住んでいるし、妻も身重なので行くつもりではなかったのだが、出陣太鼓の人数が足りないということで、急遽参加することになった。

 土曜日、出陣太鼓の練習をするために川崎のスタジオに集合して、練習した。練習後、どっかで昼食をとってから会場に向かおうなどと話しつつ、シゲオの車の置いてあるコインパークに行ったところ、シゲオが車のカギをなくした。シゲオの車には出陣太鼓で使う太鼓が全て積まれており、これがなければ演奏できない。みんなで1時間くらい探し回った挙句、結局見つからずに鍵屋に電話してその場でカギを作ってもらうことにした。鍵屋を待つ間、コインパーキングでコンビニのおにぎりを食べた。

 通常、祭の前というのは冴えないものである。祭への高揚感とかうきうきした感じはあまりなく、どちらかといえば気だるい。今回は、カギ紛失によりその気だるさが一層高まり、いかにも祭の前という感じがした。

 祭は、始まれば楽しい。今年は、次の日からオーストラリアに旅立つという会社の後輩のヤマト氏も参加し、神輿を担いではお旅所で飲み食いし、大いに楽しんだ。一日目が終わった後、銭湯に行き、イシワタ先生宅に行って挨拶した。その後、シゲオ、キエ、私の3人は打ち上げをしているナベさん宅へ。

 ナベさん宅は、カオスであった。ミュージシャンのゲンさんが心に沁みるバラードを歌っていると思えば、2歳くらいの女の子が「うんこもらした」と叫び、一方で神輿の運行についての議論が白熱している。ここまで別々のものが揃っていて、しかもそれぞれが絡み合っている場というのは、なかなかないと思った。深夜までナベさん宅にお邪魔して、イシワタ先生宅で就寝した。

 次の日、体中が痛い。朝の9時ごろ起きたキエ、シゲオ、私の3人は、先生宅でごろごろしていた。ごろごろしていると、先生がプラムとぶどうを持ってきてくれたので、それらを食べてまたごろごろしていた。その後も、洗濯をしてはごろごろし、昼食を食べに行ってはまたごろごろして、二日目の本番が始まるのを待った。ナベさんによれば、こういうのを「鋭気を養う」というらしい。

 始まれば、また大いに楽しんだ。夜八時まで大いに担ぎ、またイシワタ先生宅にお邪魔して話をして、私はシゲオの家に泊めてもらった。そして次の日、午前休を取ったシゲオとココイチのカレーを食べて、帰宅した。

 疲れたが楽しい二日間であった。行くまではだるいが、終わると楽しい。それにしても、このお祭の風景は、NHKアーカイブスでやってそうな素朴で暖かい雰囲気があるなぁと思った。なんだかんだ言って来年も来ることになるであろう。


8月5日 いかにんじん

 福島県の郷土料理に「いかにんじん」がある。ケンミンショーでやっていたので知ったのだが、一度食べたら病み付きになるくらいおいしい。その名の通り、人参とイカが混ざっただけのストイックな感じがなんともたまらない。昆布が入っているヴァージョンもあるが、それはそれでおいしい。妻がたまにスーパーで買ってきてくれるが大抵一日で全部食べてしまう。

 作り方は非常に簡単で、するめと人参を細切りにして、しょうゆ、酒、みりんで味付けして3日くらい放置すれば出来るらしい。いつか家で作ってみようと思った。


8月3日 就活について

 テレビを付けたら、今年も大学生の就職活動は厳しいという内容のニュースをやっていた。厳しい経済環境の中、萎縮しすぎて真面目になりすぎる学生と、もっと個性的な人材を採りたいという採用者側の間にギャップがあるといった内容の解説をしていた。

 テレビには、「自分が何者か分かっていないから自分らしさをアピールできない」「何をしたいかが分かっていないから面接で突っ込まれると弱い」などのコメントをしている学生が映っていた。自分を深く見つめ、掘り下げることが、内定をもらうためには重要な手順であるらしい。

 これを見て、違和感を感じた。就職する一番の目的は、金を稼いで生活するためである。まるで就活が「自分探し」のようになっているのは、不思議な感じがする。もちろん、そういう一面があってもいいが、それが全てではないし、そこがクローズアップされるのは危険な感じがする。「しんどい思いをした見返りに、お金を貰う」というのが労働の原則であり、やりがいとか自分らしさというのはその原則よりもかなり下位に位置づけされるべきだと思う。

 パパママ教室で知り合ったフジタさんは、就活をしていた頃、履歴書の趣味欄に「妄想」と記入して話題づくりをし、内定を貰ったそうである。もちろん、それを糸口とした話題の広げ方も準備していったのである。要は、就活は大いに技術的だということである。自分なりの「面接術」のようなものを身に付ければ、結構上手くいく。自分が金を稼ぐため、それも出来るだけやりたいことをやって金を稼ぐために、面接術を磨く。これは全然悪いことでない。むしろそう考えたほうが、「自分探し」などという答えのない迷路に迷い込んで四苦八苦するよりも、よっぽど健全である。

 もうひとつ、面接で重要なことは、相手の気持ちになって考えることである。「自分が面接官だったら」と考えれば、一日に何人も同じような姿格好の学生を相手にしなければならない面倒臭さや、連日圧迫面接しなければならない疲労も想像できる。そう考えれば、少し気が楽になる。相手の気持ちになって考えることは就職した後もとても重要であり、まずは社会人の第一歩として、面接官の身になって面接に臨むのも一興ではないだろうか。
 

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